ちょっと変わった府中の地名、その由来を探る 周辺の観光スポットもご紹介

古くから政治・経済・文化の中心地として栄えてきた「府中」。この「府中」という地名は、奈良・平安時代に武蔵国の国府が置かれたことに由来しています。さらに、江戸時代には甲州街道の宿場町となっていました。そのため、府中には、長い歴史や由緒を感じさせるちょっと変わった地名が現代まで残っています。ここではその地名の一部と周辺の観光スポット等をご紹介します。


片町 … 街道の片方だけに発達した町

「片町」は、甲州街道の開通(慶安年間=1648~52年頃)に伴って、街道沿いに生まれた集落です。街道の南側には高安寺の広大な敷地があったため、集落が片方(街道を挟んで北側)だけに発達したことに由来しています。
片町周辺は、発掘調査によって、奈良・平安時代の竪穴建物跡などの遺構や、土師器・須恵器などの遺物が数多く発見されている地域です。
片町1丁目付近は昭和29(1954)年に府中で最初の発掘調査が行われた場所で、「府中の考古学発祥の地」とも言われています。

[片町周辺の観光スポット]

・高安寺
平安時代に藤原秀郷が市川山見性寺を開いたのが始まりとされている曹洞宗のお寺です。平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経が立ち寄ったとも言われており、武蔵坊弁慶ゆかりの井戸跡があるほか、周辺には「弁慶橋」「弁慶坂」などの地名も残っています。その後南北朝の戦乱の時代を経て荒廃してしまいます。しかし、足利尊氏が戦に倒れた武士たちの冥福を祈って全国に建てた「安国利生」の寺のひとつとして再興されました。
境内には、都選定歴史的建造物の「本堂」「山門」「鐘楼」、都指定文化財の「木曾源太郎墓」、市指定文化財の「観音堂」「野村瓜州の墓」「高林吉利の墓」などがあり、多くの歴史文化遺産と府中崖線沿いの豊かな緑に恵まれています。

高安寺観音堂

・片町文化センター(片町2丁目17番地)
アニメ「ちはやふる」で、主人公の綾瀬千早と真島太一が幼少期に所属していたかるた会である「府中白波会」の活動場所とされていたのが片町文化センターです。「ちはやふる」には、周辺の京王線踏切・遊歩道なども登場していることから、最近では「聖地巡礼」と称して多くのファンが訪れるようになりました。

分梅(ぶばい) … かつては倍の広さの土地が分配されていた

古くは「分倍(陪)」や「分配」の字があてられ、「ぶんばい」と呼ばれていたこともあります。近世以降には「分梅」が用いられるようになったようです。
地名の由来としては、この地が度重なる多摩川の氾濫や土壌の関係から収穫量が少なかったため、口分田を倍の広さで給した土地であった、という説があります。
現在では、JR南武線・京王線の駅名には「分倍河原」が使われていますが、町名としては「分梅町」が残っています。

[分梅周辺の観光スポット]

・分倍河原の古戦場
「分倍河原古戦場」は都の旧跡に指定されていますが、現在は古戦場の面影はありません。実際に合戦が行われた正確な範囲も定かではありませんが、分梅町2丁目37番地(新田川緑道内)に「分倍河原古戦場碑」が建てられています。

・新田義貞公之像
分倍河原駅の南口に「新田義貞公之像」があります。これは、鎌倉幕府滅亡の大きな契機となった「分倍河原合戦」で勝利し、鎌倉を目指す新田義貞をイメージして作られたものです。

撮影 横山 匡

是政 … 井田是政という人名に由来

東京競馬場の南側から多摩川にかけての地名「是政」は、井田是政という人名に由来しています。
井田是政は戦国時代に北条氏に仕えた武士で、豊臣秀吉の小田原攻めで主家が滅びた後、戦乱で荒れ果てていたこの地を開墾し、領主となったという伝説的な人物です。

[是政周辺の観光スポット]

・井田是政墓(日吉町1丁目)
東京競馬場の中に井田家の墓所があります。「井田是政墓」として都の旧跡に指定されています。競馬ファンの間では有名な、第3コーナー付近の「府中の大ケヤキ」のある場所で、是政塚とも呼ばれています。
1933年、目黒にあった競馬場が府中に移設される際、井田家の人々の希望でここに残されることになったそうです。

・西蔵院さいぞういん(是政3丁目35番地)
西蔵院の地蔵尊は、「鼻取り地蔵」として知られています。
ある時、ひとりの農夫が田で代かきをしようとしますが、馬は暴れて少しも動こうとしません。農夫が途方に暮れていると、どこからか一人の小僧さんが現れ、馬の鼻取りをしてくれました。暴れ馬は大変おとなしくなり、代かきはあっという間に終わりました。
翌日、この農夫が西蔵院の地蔵尊にお参りに行くと、地蔵尊の腰の周りが泥だらけだったのです。以来、この地蔵尊は「鼻取り地蔵」と呼ばれるようになりました。

西蔵院の地蔵堂

白糸台 … 昔の製糸や布染め業に由来

現在の白糸台地域は、江戸時代には上染屋村、下染屋村、車返村と呼ばれていました。その車返村の古名が白糸村です。この染屋や白糸という地名は、その名のとおり製糸や糸染めに由来していると考えられています。
この地域では昔から蚕を飼って絹糸を作っていました。採れた絹糸は世田谷の砧に送られて、糸をさらしていました。さらに、上染屋、下染屋にまわし、糸を染め上げていました。染められた絹糸は、八王子の織屋に送られ、これを国府に納めたという言い伝えがあります。世田谷の「砧」、近隣の「調布」「布田」といった地名も当時の繊維産業に由来していると考えられています。

[白糸台周辺の観光スポット]

・旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕(白糸台2丁目17番地)
太平洋戦争末期、帝都防空の拠点であった調布飛行場周辺では、戦闘機を空襲から守るための掩体壕が有蓋・無蓋合わせて約130基造られたといわれています。
現存している有蓋掩体壕は三鷹市に2基、府中市に2基の計4基のみで、そのうちの1基が白糸台掩体壕です。
2008年に市の史跡に指定され、保存整備工事を経て2012年より一般公開が始まりました。掩体壕の大きさから、三式戦闘機「飛燕」を格納していたと考えられています。発掘調査では戦闘機のタイヤの痕跡や誘導路、砂利敷き、排水設備等も確認されています。

・上染屋不動尊かみぞめやふどうそん(白糸台1丁目11番地)
ここには、国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されています。
像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。
背中の銘から、弘長元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄入道によって鋳造されたことがわかります。
毎年、東京文化財ウィーク期間中の11月3日(祝)に一般公開が行われています。

四谷 … 四軒の家が村を興したので四屋から四谷に

四谷と言えばJR中央線の駅名にもある「新宿区四谷」が有名ですが、府中にも四谷という地名があります。
地名に「谷」という字がついていますが、この地域は多摩川が洪水を繰り返していた氾濫原にあたり、谷とおぼしき地形は見当たりません。古くは「四つ屋」の字があてられており、四軒の家が村を興した、という言い伝えが残っています。

[四谷周辺の観光スポット]

・四谷の五本松(四谷5丁目39番地付近)
江戸時代中期、甲州から来ていた商人が急病で倒れてしまいました。四谷村の人々がこれを助けたといいます。後に成功した商人は、この時の恩に報いるため、村の一社一寺三十八戸にちなんで、38本のクロマツを植えたといわれています。
残念ながら、この時の38本のクロマツは現存していませんが、現在も多摩川の堤防に沿って松の木が植えられています。



[参照URL]
FUCHU KIRARI LIFE
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/kirari/special/chimei.html

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