府中市にある分倍河原という地名はご存知でしょうか。実は、鎌倉時代後期にこの場所で鎌倉幕府が滅亡に至る節目の戦いがありました。この記事では、その戦い『分倍河原の戦い』について詳しく解説していきます。
分倍河原の戦いの始まり
天皇の皇位継承問題で鎌倉幕府に対し不満を持っていた後醍醐天皇は、倒幕を目論んでいました。
幕府は1331年に後醍醐天皇の討幕計画を知ることとなり、後醍醐天皇は笠置山に籠城します。その後幕府軍に敗れてしまい隠岐島に流刑となってしまいました。流刑にはなってしまいましたが、どうにか隠岐島から脱出をした後、後醍醐天皇は新田義貞に倒幕の命を出します。
倒幕の命を受けた新田義貞は、反幕府軍を率いて南へ進行し利根川に至るところで越後の新田一族や甲斐・信濃の源氏一族と合流します。また、足利尊氏の嫡男である千寿王も合流したことにより上野や下野、上総、常陸、武蔵の武士達もこの反幕府軍に加わることとなり、新田義貞の軍は20万7千騎にも上る兵力に膨れ上がったのです。
分倍河原の戦いから幕府滅亡へ
新田義貞の率いる反幕府軍は、現在でいう埼玉県の入間川に入ったあと武蔵国入間郡小手指原(現在の埼玉県所沢市)にて桜田貞国が率いていた幕府軍を撃破しました。またその翌日には、武蔵国久米川(現在の東京都東村山市)において、幕府軍に連戦連勝を挙げます。
この戦いはそれぞれ小手指原の戦い、久米川の戦いと呼ばれる合戦でした。その後幕府軍は、最後の砦とも言える防衛線の分倍河原へと撤退して行くことになります。
鎌倉幕府は小手指原の戦いと久米川の戦いに敗れたという知らせを聞き、当時の鎌倉幕府執権北条高時の弟である北条泰家を大将に据えたおよそ10万の援軍を派遣し、これが分倍河原で幕府軍と合流しました。反幕府軍を率いる新田義貞は、分倍河原で幕府軍を攻撃しますが10万の援軍を得た幕府軍が優勢となり、反幕府軍は堀金(現在の埼玉県狭山市)まで後退することになります。
しかし、相模国を率いた三浦義勝が反幕府軍に加わると情勢が逆転し幕府軍は退却していきました。関戸(現在の東京都多摩市)付近で幕府軍は壊滅状態に陥り、幕府軍を率いた北条泰家も鎌倉へと敗走していきます。分倍河原の戦いにて幕府軍を圧倒した新田義貞の反幕府軍には次々と援軍が合流し60万もの大軍勢に膨れ上がりました。
敗走した幕府軍は、鎌倉に籠り激しい抵抗をしますがその抵抗も虚しく新田軍が侵攻しついに鎌倉幕府が没落することとなります。北条時高をはじめとする北条一族は、菩提寺である東勝寺に火を放ち自害し鎌倉幕府は完全に滅亡しました。反幕府軍を旗揚げしてから約2週間というあっという間の倒幕劇でした。
鎌倉幕府滅亡後
鎌倉幕府が滅亡した後、倒幕を指示した後醍醐天皇は自らが政務を行う建武の新政を始めます。しかし、倒幕軍に援護してくれた足利尊氏と後醍醐天皇が対立してしまい政治は不安定になってしまいました。
これにより後醍醐天皇は足利尊氏の討伐を目論み命を出します。足利尊氏は、これに対抗し光明天皇を擁立して対抗します。そこから2人の天皇が南北に存在する南北朝時代という不安定な時代が57年も続きました。
新田義貞のその後
鎌倉幕府倒幕の立役者となった新田義貞は、後醍醐天皇を天皇に立てる南朝方の大将として各地を転戦します。しかし、燈明寺畷の戦いにて命を落としその生涯に幕を閉じました。
水田に乗っていた馬の足がはまり身動きの取れないところを矢で射られ、それが眉間にあたり最後は自刃して果てたと言い伝えられています。
新田義貞の死は南朝方にとって大きな損失であり、獅子奮迅の働きを挙げ鎌倉幕府倒幕の貢献者である優秀な武将を失った南朝の勢いは徐々に衰えていき、後醍醐天皇は窮地に立たされていきました。
分倍河原古戦場碑
新田軍と北条軍が激戦を繰り広げた分倍河原には、古戦場碑があります。現在は、鎌倉幕府が倒幕されるきっかけになった激しい戦いがあった場所とは思えないくらい静かな場所になっています。この古戦場碑は、新田義貞の子孫で、元男爵の新田義美の筆により制作された物で京王線中河原駅から徒歩約10分の位置にあるので、府中散策をした時にふらっと立ち寄ってみるのはいかがでしょうか。
分倍河原駅
分倍河原駅のロータリーには、新田義貞の像が立っています。これは、1988年に府中市が建てたものです。新田義貞像の作者は、文化勲章受章者の富永直樹さんです。分倍河原駅のロータリーにある新田義貞像は、日本刀を振り上げている勇猛な騎馬の姿で、顔は鎌倉を向くように作られていると言われています。
分倍河原古戦場碑のアクセス
住所 | 東京都府中市分梅2丁目59-4 |
交通アクセス | 中河原駅下車徒歩8分 |
入場料 | 無料 |
駐車場 | なし |
【刀剣ワールド】分倍河原の戦い古戦場:東京都 (touken-world.jp)