府中市は、歴史的に見ても魅力的な場所であり様々な史跡や逸話などが残されている場所です。
この記事では、そんな府中市の歴史小話を7つご紹介していきます。
かなしい坂
東京都府中市には、かなしい坂と呼ばれる珍しい名前の坂があります。
この珍しい坂の名前の起源は、江戸時代の玉川上水の事業が関連しているそうです。
当初、玉川上水は東京都府中市の八幡下から開削を始め、多摩霊園駅近くを通り、調布の神代あたりまで水を供給していました。
しかし、水はこの坂周辺で地中に滲み出し、工事は失敗に終わりました。
この失敗に関連して責任を問われ処刑された役人たちが、「かなしい」と嘆いたことから、この名前が付けられたとされています。
この時の掘削跡は今もなお、「むだ掘り」「空堀」「新堀」として残っており、当時の役人の悲しさの面影が残っています。
杉本苑子さんの玉川兄弟という小説でも題材にされており、地元でも有名な坂と言えるでしょう。
馬場大門のケヤキ並木
馬場大門のケヤキ並木は1000年の歴史を有しており、日本唯一の天然記念物のケヤキ並木として東京都府中市のシンボルに位置づけられ、1924年に日本で2番目に国指定の天然記念物になりました。
このケヤキ並木は、源頼義と義家が1051年から62年にかけて奥州に向かう途中、大國魂神社で戦勝を祈願し、ケヤキの苗木1000本を寄進したことが由来とされています。
徳川家康も慶長年間に補植を行い、関ヶ原の戦勝を感謝して東馬場と西馬場を寄進しました。
1982年には最古とされるケヤキが枯死したため、それに伴って採取され東京農工大学によって樹齢の鑑定が行われており樹齢は約600年から900年の可能性があると明らかになりました。
この歴史的場所には源義家の銅像も建てられています。
武蔵府中熊野神社古墳
武蔵府中熊野神社古墳は、7世紀中頃に築かれ、国内最大かつ最古の上円下方墳と呼ばれる独特な形状を持つ古墳です。
この古墳は他に類を見ないものであり、当時の有力な豪族が葬られた可能性が高いと考えられています。
墳丘の中央には、3室から成る複室構造の横穴式石室があり、その下には地盤を強固にする基礎工事が施されています。
石室からは当時の生活を物語る精巧な鞘尻金具などが出土し、多くの情報が保存されている非常に貴重な古墳のひとつです。
2005年には、国指定の文化財にもなっています。
国司館と家康御殿史跡広場
国司館と家康御殿史跡広場は東京都府中市に位置し、1300年前に武蔵国府の国司館が存在した場所で、430年前には徳川家康の府中御殿が築かれた歴史的な場所です。
武蔵国府は、7世紀末から11世紀初頭にかけて武蔵国の行政機関として栄え、政治・経済・文化の中心でした。広場内には、国司館の歴史を伝える1/10サイズの模型があり、模型は発掘調査や建築史学に基づいて忠実に復元されています。
国司館は奈良の都から赴任してきた国司の宿泊地であり、一年を通して様々な儀式や宴が行われました。
また府中御殿は、1590年に徳川家康が豊臣秀吉をもてなすために建造されたという見解が有力でしたが、最近では豊臣秀吉自身が御殿を建設したとする説も支持されています。
しかし発掘調査により、徳川将軍家の初期の「三葉葵紋」の鬼瓦が見つかり、府中御殿が徳川将軍家によって築かれたことが確認されました。
徳川家康は将軍たちの中でも鷹狩りを好んでおり、府中御殿は家康が鷹狩りなどを楽しむ際の滞在施設として使用され、秀忠や家光の三代にわたって利用されました。
府中は多摩川を越えて富士山を望むことができる美しい景勝地であり、同時に防備にも優れていたことが、この地が選ばれた理由と考えられています。
松飾りを嫌う
府中では昔から、くらやみ祭や正月の飾りに「竹」が使われてきました。
これは大國魂神社に伝わる「七不思議」の一つで、「境内に松の木なし」が由来とされています。
伝説によれば、神様の大国様が八幡様と夜に外出し、八幡様に「ここで待っていてくれ」と頼まれましたが、八幡様は戻ってこなかったため、大国様は「待つことはつらく、嫌いだ」と語り、それ以来「待つ」を「松」にたとえて嫌うようになったそうです。
現在でも大國魂神社境内には松の木がなく、近隣の家々では正月に門松ではなく竹が飾られます。
オリンピック競歩折返記念碑
1964年の東京オリンピックでは、東京都府中市が50キロメートル競歩の折り返し地点となっており現在では記念碑が建造されています。
競技当日は雨模様でしたが、ボーイスカウトやガールスカウト、市内各団体の協力により、甲州街道の清掃が行われ、交通規制や警備体制も整えられました。
日本人選手を含む34人の競技者が難しい天候のなかで懸命に力歩き、多くの市民が沿道で拍手や声援を送っていたそうです。
競技者たちの先頭から最後尾までの差は約30分ありましたが、市民は最後の選手が折り返すまで見守りました。
当時の広報紙には競技以外の記事もあり、犬の放し飼いに関する注意喚起などが行われていたことが伝えられています。
三千人塚
三千人塚は、分倍河原合戦の犠牲者3,000人が埋葬された場所だと信じられていました。
しかし、昭和30年の発掘調査でこの場所からは13世紀後半から14世紀前半の蔵骨器(4つ)が見つかり、実際には鎌倉時代後期の墓地であることが判明しました。
なんと、分倍河原の合戦とは何も関係なかったのです。
平成17年の調査では、石にお経の文字を写した「礫石経」が多く見つかり、現在の塚は江戸時代に築かれたものであることが明らかになりました。
この場所は鎌倉時代以降も信仰の対象とされていたと考えられています。
参考URL史跡 | 府中観光協会 (kankou-fuchu.com)
ぶらり国・府 (kokufu.tokyo)
悲しい坂 (moguratushin.sakura.ne.jp)
馬場大門のケヤキ並木 |地域資源紹介記事 | 東京都 地域資源(TOKYOイチオシナビ)
ぶらり国・府 (kokufu.tokyo)
【府中市】府中市の歴史を象徴する国史跡「国司館と家康御殿史跡広場」 | イマタマ特派員 (imatama.jp)
府中は「竹」で明かりのおもてなし なぜ大國魂神社は正月でも「松」飾りを嫌うのか – 調布経済新聞 (keizai.biz)
2020年6月21日号「東京1964大会その1」 東京都府中市ホームページ (city.fuchu.tokyo.jp)